くろじいの小屋
COLUMN


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27  祖 母            2004. 6.20
  この気取って写っている人物はくろじいの祖母。
勿論ずいぶん若い時の写真だ。
 
「プレスクラブにて毎日○○氏撮る」写真の裏にはそう書いてある。
祖母が日本プレスクラブで働いて居た頃のものだ。
撮影日は記載されていないが、後に写るカレンダー、10月1日が月曜日である事から推察してくろじいが生まれた昭和37年では無いかと思われる。
とすると、祖母が49歳頃の写真という訳だ。
日に焼けた毎日新聞社の袋と綺麗なプリントの具合から、当時の記者が撮ったのであろう。
 
気になって荷物を整理していると、出てくる出てくるラブレター(当時は恋文か?)の山!自分の本名が気に入らなかったのだろう、色々な名前の手紙があっておかしくなる。
 
 
他に昭和天皇の御料車の前で勝手に撮った写真、連合軍最高司令官マッカーサー元帥がプレスクラブを訪れた時に撮した写真等々、くろじいが小さいときに見せられた記憶があるのだが、どうでも良い手紙ばかりでなかなか出てこない。
まぁ祖母にとっては写真の方がどうでも良かったのかも?
 
マッカーサーについても何度も聞かされたっけ。
来訪の記帳をしてもらうためにペンを渡そうとした祖母は誤って落としてしまった。
「アームソーリー」と辿々しい英語で謝ると。
「どういたしまして、あなたはとても美しい」とマッカーサーが言ったという。
「あれはいい男だったー」といつも言っていた。
嘘つきババー!マッカーサーが日本語喋る訳無いじゃん!
 
 
祖母は運が強い。
関東大震災も太平洋戦争もくぐり抜け、今でも健在である。
 
震災の後は、生まれ育った浅草から池袋に移り住み、戦争中は福島県の須賀川という場所に疎開していたそうだ。
その頃の祖父は帝国蓄音器(後のテイチク)に部長職と勤めていて、後に東海林太郎(今の人は知らないだろうが戦前は有名な歌手よ、お世辞にも上手いと思わないけどね)の
マネージャーをしていたのでお金には不自由していなかった。
 
  余談になるが、祖父が在籍して居た頃というのはディック・ミネ(この人も知らないでしょ〜なぁ)が全盛の時代。
祖父は色々なペンネームで多くの歌手の編曲をしていたらしい。
ある日の事、そんな祖父の所へ「色々な興行の前座で歌う、非常に歌が上手い少女が居るんだが会ってみないか?」と話があった。早速会ってみると歌の上手さに祖父は驚嘆。
何とか採用するように会社に強く薦めたが、「幼い女の子に流行歌を歌わせるとは何事か!」と当時の頭の固い上層部に却下されてしまった。
その少女は後にコロンビアからデビューする美空ひばりだった。
「あれは惜しい事をした」と祖父は死ぬまで言っていた、人生とは何が起きるかわからないものだ。
 
  さて話は戻るが、戦中戦後にかけて東京の祖父から毎月のように1万円という大金が送られてきた。公務員の初任給が500円位の頃だ、いかにそれが大金であったのか想像がつくというものだ。
ところが最後はスッカラカン、祖母は困った人に催促無しで貸してやり、更にはくれてやり、宵越しの銭は持たない!
聞こえは良いけど冗談じゃね〜よ
だから何処をどうひっくり返してもガラクタのような物しか出てきやしない。
わけのわからない絵画が2枚出てきたが、価値があるんだか無いんだか押入にしまったままだ。
 
  大正生まれの祖母は母親の世代よりの遙かにハイカラだ。
「好きな子が出来たのか?」と言ってはいきなり「渡すように」とネックレスを買って来たのも祖母である。
ちょっと待て、その時俺は小学生だぞ、ネックレス?
ちなみにハイカラとは当時西洋帰りの人々が、あちらで流行していた高い襟(ハイカラー)付きの洋服を来て帰って来た事に由来するという。
 
確かくろじいが小学校3年の時だったと思う。
夕飯のおかずを買いに行くというので一緒にお使いにくっついて行った。
すると近所の公園(コラム懺悔に出てくる墓場脇の公園)でヤクザ2人が若い男をボコボコに殴ったり蹴ったりしていた。
どうも新入りがヘマをやったのが原因らしい。
周りの大人達は遠巻きに見ているだけ。
 
いきなりその人だかりをかき分けたと思うと、進みでて祖母が言った。
「お兄さん方、この人が何をしでかしたかわかりませんが、こうやって謝っているんです、
ここはひとつこの年寄りに免じて許してやって下さいな」
まるで水戸黄門のセリフである、こっちには印籠はおろか助さんも格さんも居ない、
脇で小学3年の俺が、今にも死にそうなプードルを引いているだけである。
もし凶暴な奴だったらどうするつもりだったんだろう?
その時殴られている若い奴が言った「俺が悪いんです、だからいいんです」
「悪いんだったら一緒に謝ってやるからもっと真剣に謝るんだよ!」と祖母は言った。
「このお母さんに免じて今日のところは許してやらぁ」そう言い残して二人は去った。
 
服は破れ、泥だらけになった若い男にハンカチを差し出し、泥だらけのズボンのポケットにお金をねじり込みながら言った「これで何か食べな、そしてこんな商売早く辞めちまうんだよ!」若い男は泣きながら祖母に土下座した。
 
帰りに祖母は俺に言う「ああいうのはねチンピラっていってヤクザじゃ無いんだよ。
本物のヤクザはね人前であんな事はしないんだ。それに本物の渡世人は堅気には手を出さないから怖くないんだよ」
おいおい小学校3年生に任侠道教えてどうするんだ!
 
刺身になるはずのお金は消えた。
その夜は任侠道のお陰でコロッケになった、今でもコロッケを食べる度にその時の事を鮮明に思い出す。
 
そんな祖母は大正2年生まれ、今年で91歳になった。
今はボケがすすみ都内の特別養護老人ホームのお世話になっている。
くろじいが倒れてから会いに行っていないが、最近行った親戚の話ではとてもしっかりしていて普通に話しているだけならボケているとはとても思えないと言っていた。
 
小さい頃、くろじいはよく祖母にサイダーのキャップ(当時は瓶だった)を歯で開けてもらったものだ、今思うと凄い話。
91歳になった今でも入れ歯どころか虫歯ひとつ無いのは大したものだ。
きっと歯が丈夫な事が長生きの秘訣かもしれないな。
いや本名の「つる」って名前が一番効いてるのかも・・・・・
 
「私の方が先に逝きそうだわ〜カメじゃなくて良かったわね〜」と母は言うのである。
 


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